茶道の骨董主義(?)

土曜日、日曜日とずっと正座&立ったり座ったりを繰り返したせいか、今日は膝と腿が痛い。月に一度二日連続お稽古の翌朝は、微妙に肩や背中も凝ってる。どこかに変な力が入っているんだろう。そんなわけで、今朝は朝早めに起きて朝風呂にゆっくりつかって凝りをほぐそうとしたくらいだ。(でもまだ凝ってる。)
昨日のお稽古で、Aさんが茶入れ荘りのお稽古をなさった。お道具拝見の問答のところで「自分の茶入をわざわざ古帛紗の上に載せて、どやっと言わんばかりに見せるなんてあり得ないよね、普通は。だから、それだったらありうるかなーっていう謂れ(ストーリー)が無いと茶入荘りなんて成立しないのよ」とU先輩がおっしゃるので、
「たとえば、連客の中の人からもらった茶入とか?」とAさんが正客役の私に振る。私は「じゃ、こんな感じですかね。『それはもしやあの茶入でしょうか・・・・?』」あうんの呼吸でAさんが「はい。そうなんです。その節はありがとうございました。」私「大切にお使いいただき、有難うございます」
なんて会話を展開してみたら。
Uさん一言。
「で、あなたは一体どんな茶入を差し上げたの?」
私、もちろん答えられません(笑)
でも、気を取り直して「私に時代物は買えるわけないから、たとえば現代の作家で茶入とか作ってる人はいないでしょうか。その人の作品てことでどうでしょう。」とU先輩に問いかけてみたらU先輩「うーーん。現代の作家ねぇ。。。。いることはいるけど、やっぱりあんまり(茶入荘りとしては成立し)ないわね。」そして、U先輩の「使えるストーリー」としては、
先祖伝来の茶入で曾祖父が又?斎(ゆうみょうさい・12代家元。ちなみに現家元は16代)から「偲ぶ草」という銘を頂戴している。今日はちょうど曾祖父の月命日にあたるので使わせてもらった、というようなストーリー。そしたら客は、お箱など拝見したい、と言って、亭主は、では後程、なんて答えて、会話が弾むし、あとで箱も拝見できて楽しいでしょう?
また別の例として、例えば、益田鈍翁が持っていた茶入でその前は○○家の家老××が所持していたと聞いています、のように、どんな人の手をわたってきた道具なのかがわかるものなら、その時代や、この茶入を持った人に、思いをはせるだけでも楽しいでしょう??
Uさん曰く。古いものをそのままの形でいつまでも大切に持ち続けるということがすでに大変価値あることなのだ、と。
なるほど。だから現代作家の茶入で茶入荘りにはあまり感心してくれなかったんだね。
でもなぁ。一般庶民の家に何百年も前から伝わる道具なんてないし、ましてやそんなものをぽんぽん買えるわけもないし。家元の箱書きとか私とはまったく縁のない世界。
だけどお稽古では、何代も前の家元に名前をつけてもらった大切な道具、はたまた博物館にあるような大名物やら中興名物を使っているがごとく拝見のお稽古し、会話の練習をする。
なんかやっぱり現実と合ってない気がするなー。
U先輩は良い物を沢山見るようにすれば(博物館や美術館やお茶会などで)、だんだんと分かってきて、興味も沸いてくるし、知らない道具を見たときも想像がつくようになってくる、そうするともっと楽しくなってくるわよ、と仰るのだが、単に勉強不足というだけのことなんだろうか。うーむ。