昨日の朝礼で、大先生が人の心を受け止めることの大切さを説かれていた。六波羅蜜の精進と忍辱に通じる話としてだった。たとえば何かいやなことを言われたとしても、その意味を考えて受け止める、これも精進であり、忍辱であると。何かの行動の裏にある相手の心を受け止め、意味を考えることが大切。しっかり受け止めてそれを返していくこと。そうしていれば、その人(周りの人だったり、道を説いてくれる人(指導者)だったり)に好かれるようになる。好かれるようになりなさい、と大先生はおっしゃる。自分はもうこの先何年も無いと思っているから、最後まで精進していって、死ぬときには良い人生だったありがとうと言えるようにしたいともおっしゃっていた。私も大先生に好かれるようになりたい。
朝のお話に関連して。お昼の時間に、AグループリーダーのUさんが、精進も忍辱も自己卑下につながってはいけないと思うとおっしゃった。精進も忍辱も大事。だけど、私の頑張り方はまだ足りないんだわ、になっちゃいけない。出来る範囲で出来ることをしっかりとやり続けることが大事なんじゃないか、と。
うーむ。これも深い。
そしたら、Bグループのリーダー格のKさんが、そういうのが日常に生かされれば理想ですよねぇ。私が習ってた華道の先生がおっしゃるには「自分はお茶の人は大嫌いだ。お茶室の中では相手を褒めたり良いことばっかり言ってるけどお茶室の外に一歩出たら人の悪口ばっかり言うから。」こうなってはいけない。お茶室の外に出て日常に戻っても、精進と忍辱を忘れずにいられたらねぇと、一同ため息。
私もお茶のお稽古場から一歩外に出ると、精進と忍辱をすっかり忘れて家の中もぐちゃぐちゃだ。怒りにまかせて子供たちを怒鳴りつけることもある。仕事場では志ってなんだっけーなどとうそぶいていたりする。
永平寺のお坊さんたちの修行をテレビで見たことがある。雪隠の掃除も食事の支度も落ち葉はきも、生活すべてが修行。これを私のような庶民に敷衍して考えれば、日常生活を丁寧に送ることも、子供をしっかり育てることも、会社で仕事をすることも、全部修行になる。これが日常につながるということなのか。
もう少しゆっくり考えてみる。ていうか、考えるより実行、か。