さよなら堤さん2

堤さんの追悼記事を引き続き集めます。
◆毎日新聞
堤清二さん死去:「作家」辻井喬さん 素顔は穏やかな紳士
2013年11月28日 18時12分(最終更新 11月28日 21時57分)
 作家としての辻井喬さん(堤清二・セゾングループ元代表)を考える時に必ず思い浮かべるのは1998年刊行の「沈める城」という長編小説だ。400字詰めで1650枚という大作。「私にとって、最も重要な小説」と話していた。
 リアルな実業界を生きる食品会社経営者と、彼とうり二つの詩人が描かれ、現代人の精神のあり方を問いかける。経営者は没思想の繁栄をしている虚飾に満ちた戦後社会に空虚感を抱き、詩人は濃密な空気が漂う南の島で日本文化の源を探っている。両者の姿に辻井さん本人の投影を見ることができるだろう。辻井さんもそれを否定しなかった。しかし、多くの日本人がこのような分裂を生きたのが戦後ではなかったかと問いかけた。
 時代の変化を読み取って高度経済成長をめざした面と、置き去りにされがちな生の意味を追い求めた面。戦後社会の二つの側面のそれぞれ最先端を歩んだ。とても象徴的な人生を送った人ともいえるだろう。
 2010年に元首相、大平正芳の肖像を描いた小説「茜(あかね)色の空」を出したのは日本の政治へのメッセージだった。多くの政治家に接したが、大平は全く印象が違ったという。国際協調。文化の重視。財政健全化。大平は「人間の顔をした保守政治」を求めたが、晩年は激しい権力闘争に巻き込まれたと見る。この本は今、現実的なリベラル政治をめざす若手政治家によく読まれている。
 素顔は穏やかな紳士だった。99年から毎日出版文化賞選考委員を務め、座長格として議論をまとめた。委員一人一人の意見を熱心に聞く態度が印象的だった。辻井さんは中心が一つしかない円よりも、二つある楕円(だえん)を好んだ。決して熱狂的にならず、相反するものを幅広い視野で眺めて、複眼的に対処することを心がけていた。【重里徹也】
◆毎日新聞
堤清二さん死去:最期まで創作意欲 各界から惜しむ声
毎日新聞 2013年11月29日 東京朝刊
 「異色の財界人」であり、類例のない「マルチ文化人」と呼ばれた流通大手セゾングループ元代表の堤清二(つつみ・せいじ)さんが25日、東京都新宿区内の病院で亡くなった。86歳。喪主は妻麻子(あさこ)さん。お別れの会を来年開くが、日取りは未定。
 セゾンの経営者「堤清二」として、1970?80年代に「おいしい生活。」などのキャッチコピーを掲げて大衆の消費文化をけん引する一方で、「辻井喬(つじいたかし)」の筆名で詩や小説、評論など文学者としても活躍。3・11以後は、「詩や小説を書く人間として、どんなことができるのか考える日々を送っている」と、毎日新聞のインタビューに毅然(きぜん)として答えた。関係者によると、最期の時まで「書きたいものがある」と、創作意欲は衰えなかったという。
 訃報に接したこの日、各界から惜しむ声が相次いだ。「セゾン文化は何を夢みた」の著者、永江朗さんは「デパート催事場の『美術館』で、欧米の最新芸術を発信した影響力は大きかった。彼が目指したのは世界の流行を伝えることではなく、権威に頼らず自立した『近代的市民』をどう育てるかということだった」と振り返る。同時に、資本主義社会の中で消費を一つの「文化」と捉えたのも大きな特徴と指摘。「事業家として失敗したかもしれないが、堤清二を知らない現代の若い人も『無印良品』といった『セゾン文化』を受け継いでいる。そのことに満足しているのではないか」と語った。
 詩人の北川透さんは「日本の詩が70年代以降、言葉の新しさに流れた中、辻井さんは思想の表現を追求した。戦争体験を根幹にした自己主張があり、それが現代詩に厚みをもたらした。詩壇とは違うところで生きた人だが、詩に向かう姿勢は純粋だった」と話した。
 毎日出版文化賞の選考委員を共に務めた政治学者、御厨(みくりや)貴さんは約8年前、専門とするオーラルヒストリーで、政財界から文学界にまたがる幅広い見識を持つ堤さん本人から聞き取りした。「非常にシャイで、雄弁に話すタイプではなかった。途中で、ロシアや第3世界の作家や詩人の話をされてけむに巻かれそうになり、哲学者や経済学者を連れて行くなど私1人で会わないように“防備”が必要だった。とても博識な人だった」と惜しんだ。
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 ◇辻井喬さんの主な著作
異邦人            詩集  1961年
彷徨(ほうこう)の季節の中で 小説    69年
いつもと同じ春        小説    83年
暗夜遍歴           小説    87年
群青、わが黙示        詩集    92年
虹の岬            小説    94年
沈める城           小説    98年
風の生涯(上・下)      小説  2000年
父の肖像           小説    04年
鷲(わし)がいて       詩集    06年
叙情と闘争          回顧録   09年
辻井喬全詩集         詩集    09年
茜(あかね)色の空      小説    10年
死について          詩集    12年
◆朝日新聞
死去した堤清二氏、経営に文化を融合 セゾン文化生む
2013年11月28日21時35分
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堤清二氏とセゾングループ、辻井喬さんの歩み
 86歳で亡くなった元セゾングループ代表の堤清二さんは、業界首位にもなった百貨店を経営するかたわら、詩人・作家の辻井喬として日本の戦後をみつめてきた。経営者から作家まで幅広い人たちが、二つの顔を持っていた稀有(けう)な存在を惜しんだ。
 堤さんは、鉄道や百貨店を展開する西武グループ創業家の次男として生まれた。
 詩や小説に興味があった本人は、もともとは「家を継ぎたくなかった」という。ただ、父の故堤康次郎さんの遺言で、本業の鉄道は異母弟の義明氏に、百貨店は堤さんに継承された。
 堤さんの豊かな才能は、百貨店経営にいかされた。1973年には渋谷パルコを開店。このなかの西武劇場(現パルコ劇場)から小劇場ブームが広がった。小売業に、現代美術や演劇などの文化事業を融合させる経営手法は「セゾン文化」という言葉を生み、同社の売り上げを押し上げた。
 クレジット大手・クレディセゾンの林野宏社長は、西武百貨店の社長だった堤さんに薫陶を受けた。「物おじせず意見を言う私を最後まで可愛がってくれた。イノベーティブ(革新的)な提案をしないときつく叱られる。消費文化を育てただけでなく、芸術や文化を生活に融和させようとした」としのんだ。
 経済と文化の両面で交流のあった幻冬舎の見城徹社長は「経営者としての非情さと冷徹さ、文学者としてのロマンチシズムや義理人情。二律背反を生きた人だった。矛盾する両極を抱きとめながら、その葛藤を表面には出さず二つの顔を演じ分けた」と語る。
 詩人の金時鐘(キムシジョン)さんは、文学者の生き方に共鳴していた。「経済的に恵まれた境遇とは一線を画し、進歩的、革新的な考え方を示してきた人。情念と論理性を併せ持つ、息の長い壮大な言葉の力は稀有のものだった。根底にあるのは、揺るぎない反戦思想だったと思う。詩の選考では、無名の人の作品も丹念に読む誠実さに驚かされた」
 現代詩は難解といわれるが、日常的な言葉を使って多くの読者を得たのも、堤さんの特徴だった。
 文化のパトロンとしての貢献も大きい。評論家の三浦雅士さんは「三島由紀夫に楯の会の制服をおくり、安部公房に舞台を与え、デパートで三宅一生の作品展をした。実業家の堤清二と、作家の辻井喬は密接に絡んでいた。セゾン文化は彼の作品。人生はすべて作品なのだと身をもって実現した面白さがあった」。
 「セゾン文化は何を夢みた」の著者永江朗さんは、「西武美術館(セゾン美術館)は都心のデパート内で、前衛芸術を一般消費者に開放的に提示した。目指したのは、自立した市民の確立だった。文化的な生活によって、一人一人が権威や義理に頼らず判断できるようになることが理想だった。市民感覚が世の中をよくすると信じていたと思う。安倍政権での特定秘密保護法案や改憲への動きに対してどんな思いで、最後を迎えられたのだろう」。
 辻井さんの代表作の「父の肖像」(野間文芸賞)は、政治家で実業家である父をモデルにした長編小説だ。11年に戦前の大歌人斎藤茂吉を父に持つ作家の北杜夫さんが亡くなった時、朝日新聞記者に「偉大な父親を持つと大変なんですよ」としみじみ語っていた。
 西武百貨店の広告を数多く手がけたアートディレクターの浅葉克己さん(73)は1980年代、映画監督ウッディ・アレン氏に「おいしい生活。」の広告への出演を依頼した時のことを思い出す。アレン氏は最初は渋っていたものの、堤さんが「映画館も持っているので、あなたの作品を上映できる」と話すと、すぐに快諾したという。
◆朝日新聞
「存在が文学」「実業と違う世界求めた」 堤清二氏死去
2013年11月29日05時17分
 セゾングループを率いた経済人であり、辻井喬(つじい・たかし)のペンネームで作家・詩人としても知られた堤清二(つつみ・せいじ)さんが死去した。小売業に文化事業を融合させる一方、日本の戦後をみつめた文化人の死を悼む声が28日、相次いだ。
■アーティストに愛情
 《建畠晢(たてはた・あきら)・京都市立芸術大学長の話》非常にクールで冷静だった一方、自分が信頼するアーティストに対しては、変わることのない愛情を注いでいた。詩人としてのまなざしで、作品の中にポエトリーや文学性の要素があるアーティストを敬愛し、コレクションしたり、美術館で展覧会をしたりして、生涯にわたって気に入ったアーティストを支え続けた。
 日本のアーティストを海外に紹介しようという気持ちも強かった。ニューヨーク近代美術館の理事でもあり、日本で開かれた理事会のパーティー会場にセゾン現代美術館が所蔵する作品を並べてメンバーに紹介するような熱いところもあった。
■優れた文学者
 《歴史学者で歌人の上田正昭・京都大名誉教授(86)の話》彼とは小野十三郎賞の初期の選考委員や、滋賀県の「文化の屋根委員会」の仕事でご一緒した。企業家らしく堅実な者の考え方をする一方、新しい分野を開拓するような仕事や、着想の鋭さを高く評価しておられたのが印象的だ。大変優れた文学者だったので、残念だ。
■現代まれに見る思想詩人
 《文芸評論家の粟津則雄さんの話》辻井さんとはこの10年ほど仲良くしており、訃報(ふほう)を聞いてがっくりきている。
 まず思い浮かぶのはほほ笑み。人に伝えようのない、さらけ出すことのできない痛苦を抱えながら、それを優しくほほ笑みで包んでいた。それは孤独な顔にも見えた。
 政治にも、詩にも、自分自身にも、終始一貫した強い批評性を持っていた。現代日本にまれに見る思想詩人であったと思う。詩のテーマは、日本の近代から、家族、そして自分そのものへと移っていった。最後の詩集は、「死について」。本の表紙には「そう遠くないうちに僕も入るその空間には雲が流れているだろうか/緑が滴って澄んだ水に映っているか」とある。そう遠くないうちに、という思いがあったのだろう。最後の最後には自分の死にたどり着いていた。存在そのものが文学だった。
■本当の優しさ持った人
 《思潮社(詩の出版社)の小田久郎代表の話》気をつかっていても、それを相手に分からせない。そういう本当の優しさを持った人だった。実業の世界で巨大な資本や力を手にしていても、それに対する執着は全くなかったのではないか。詩と文学を愛する青年がそのまま大きくなった感じだった。
 変わった料理を食べにいこうという話になり、二人でマムシ料理の専門店に行ったことがある。「小田君はマムシ料理を食べるときも哲学者のような顔をしているね」とからかわれました。
■実業とは違う世界が必要だった
 《詩人・谷川俊太郎さんの話》ドナルド・キーンさんと一緒に食事に招待されたり、大岡信さんと呼ばれたりしたことがあります。実業家である辻井さんの詩はぼくにとってはとっつきにくいものでしたが、辻井さんはぼくの詩をほめてくれました。辻井さんは日本の音楽や美術振興のために良い仕事をされ、現代詩人の集まりなどにも支援を惜しまず、頼もしかった。実業とは違う詩や小説の世界が必要だったのだろうと思います。
◆朝日新聞
<評伝>経営、信念と自省と 剛腕とは一線 堤清二さん死去
2013年11月29日05時00分
 堤清二(辻井喬)さんには、経済面の連載「証言そのとき」を執筆するため、昨年9月末からインタビューを重ねた。笑い、冗談を交え、85歳とは思えないほど言葉に力があった。▼1面参照
 堤さんの経営者としての一面を感じたのは1984年5月。私は西武百貨店の新入社員だった。5月の連休中、東京・八王子の店頭で来店客にアンケートをお願いしていた。突然「商品撤去を手伝え」と命じられた。
 その日、催事場では販売不振だった無印良品を値引き販売していた。そこへ百貨店会長だった堤さんが店舗視察に来て、即時撤去を命じたという。包装や製造工程を簡略化し「わけあって安い」無印を値引きしては、意味がない。来店客の前での商品撤去。オーナー経営者の力を思い知った。
 いきさつをインタビュー時に明かすと「いや、恥ずかしいな」と頭をかきながら「でも、その判断は間違っていませんね」と言った。「無印は反体制商品なんです」とも説明した。反米国的消費生活=利便性、浪費性、ぜいたくを追う体制への反発、と。それを値引きしてはまずかった。
 三越や高島屋などの呉服系百貨店に比べて歴史の浅い西武百貨店の存在感を高めたのは、欧州高級ブランド品の輸入だった。業界では最も早く欧州ブランド50社と代理店契約を結んだ。これがバブルさなかの日本で受けた。一方、「日本人はブランドという権威に弱い。でも、ブランド品を売っておいて、こう言うのはまずいなあ」と経営者の自らを批判的にも見ていた。
 セゾングループを育てた剛腕の経営者かというとそうでもない。池袋店の売上高が日本一になった時のことを聞くと「うれしくないことはない。あ、そうかと思うんだけど、精神的に満足とは違う。鈍いのかなあ」と返ってきた。
 最後に会った昨年11月、「実は自伝を書き始めています。夜書くんですけど、僕は筆が遅くてね」と言った。詩人・作家として経営者の自らをどう評価したのか、待ち遠しい一冊だった。(編集委員・多賀谷克彦)
◆朝日新聞
(天声人語)堤清二さん逝く
2013年11月29日05時00分
 1980年前後、渋谷の公園通り界隈(かいわい)でよく遊んだものだった。西武百貨店の81年のコピー「不思議、大好き。」や翌年の「おいしい生活。」が時代の空気を彩っていた。モノから、情報へ。消費社会の変容を仕掛けた元セゾングループ代表の堤清二(つつみせいじ)さんが亡くなった▼その仕事には常に文化が薫った。優れたクリエーターを集め、斬新な広告を繰り出す。劇場や美術館をつくる。芸術の発展と創造に抜群の貢献をしたと、音楽評論家の故吉田秀和さんは絶賛していた。頼りになるパトロンでもあったのだろう▼だが、消費社会は堤さんをも追い抜く。バブル絶頂の88年のコピーは「ほしいものが、ほしいわ。」だ。買い物には飽きた。欲望も萎(な)えた。人々の心変わりに、売り手が困り切っているようにも読めた。3年後、グループ代表からの引退を宣言する▼元は政治青年だったせいか、その方面の発言に遠慮がなかった。55年体制に幕引きせよと主張し、自社連立政権の役割に期待した。「個人」の尊重を説き、古くさい愛国心教育論を退けた。憲法の平和主義へのこだわりも再三語った▼回顧録『叙情と闘争』に、小学生のころ同級生に「妾(めかけ)の子」といじめられ、大げんかした話が出てくる。後年の反骨精神の源の一つだったろうか。経営者として挫折を経験したが、詩人で作家の辻井喬(つじいたかし)としては多くの著作を残し、健筆を貫いた▼〈思索せよ/旅に出よ/ただ一人〉。回顧録の最後に掲げられた短い詩の一節が、旅立ちに似合う。
◆日本経済新聞
「新しい消費経済学作りたかった」 堤清二氏死去
 セゾングループの創業者の堤清二氏が死去した。堤氏が立ち上げたパルコを大丸松坂屋百貨店を傘下に置くJ・フロントリテイリングが買収したことについて2012年秋、同氏にインタビューをした。だが話題はパルコだけでなく、最近の消費動向や流通産業、東日本大震災など幅広い分野に及んだ。堤氏は「もう(余命は)長くはないけど、できれば新しい消費経済学を作りたい」などと話していた。
 動作こそ緩慢だったが、頭は十分にさえていた。インタビューで堤氏は「最近は流通業界も話題がM&A(合併・買収)ばかりだもんね。何でも金に置き換えていくのはどうなんだろう」と語った。消費者の低価格志向に対応し、スケールメリットを追求する多くの流通企業。この流れに産業としての行き詰まりを懸念していた。
 堤氏は現役の経営者時代から流通産業はマージナル産業だと訴えていた。これは流通業が資本の論理だけに換算されない産業という意味で、企業は人間の存在価値を掘り下げて、新たな商品・サービスを提供すべきだとの考えだ。堤氏は「世の中の流れと違うことを考えないとだめなんです。希望はあります。我々が見えていないだけ」と話していた。
 同氏は「(経営の一線を離れたダイエー創業者の)中内功さんとホテルで会い、なんかやろうと話したこともあったよ」と戦後の流通産業をけん引した大物同士のコラボレーション計画を披露してくれた。もっとも中内氏が2005年に死去し、この計画が日の目を見ることはなかった。80歳を過ぎても知的好奇心は旺盛で「もう長くはないけど、(マージナル産業論を踏まえた)新しい消費経済学を打ち立てたいね」と強い意志を示していた。
 自らが作り上げたセゾングループが解体されたことについて「責任は僕にある。でも無印良品とかクレディセゾンが残っているのはせめてもの慰め」と笑っていた。
 また東日本大震災後に福島県の南相馬市に出かけたことなども語った。「1年間、人間が不在になると家畜が野生化するなど風景もあっという間に変わってしまう」と驚きながらも「希望もあったよ。被災地の自治体は自立心が強まっていた」と指摘した。
 その上で「経済が長く繁栄する国で日本のように中央集権が続く国はない。復興を機に分権化を推進するなど新しいスローガンを掲げる政治家が出てきてほしい」などと注文を付けていた。最後まで好奇心が衰えることはなく、自らに課した新学問の確立という宿題を残したまま世を去った。
(編集委員 中村直文)
◆河北新報
河北春秋
 セゾングループは人気就職先の筆頭格であった。東京・渋谷通いのおしゃれな学生だけでなく、文学青年までが「西武で流通の仕事に就きたい」。代表の堤清二さんにあこがれる仲間は多かった▼1980年代、銀座や日本橋の老舗が色あせて見えるほど、生活総合産業というスタイルが一世を風靡(ふうび)した。パルコ、無印良品をはじめ、「おいしい生活。」などの流行語も、そこから発信された
 ▼鉄道、リゾート開発を率いる異母弟の義明氏の脂ぎった手法と対照的に、淡々とした風だった。距離を置く父、康次郎氏の築いた華麗な一族、その中の自分を冷ややかに見ていたところがある▼骨肉の争いという俗っぽい言葉は、この人に似合わない。自然と小説や詩に傾倒し、90年代に多くの作品を発表した。ペンネーム辻井喬の知名度が上がるにつれ、マルチ経営者の名望は高まる
 ▼しかし、バブル経済の終末とともに第一線を退いた。元学生運動家らしく社会問題には敏感。護憲の集会に呼ばれ、政治家の言葉は軽いと批判する姿があった▼どちらが本筋かと問われ、「ビジネスは仮の姿という感じもする」と語っていた清二さん。86年の生涯を閉じた。突き抜けた世界観で国の行く末をどう見ていたか、いま一度聞きたかった。
2013年11月29日金曜日
◆読売新聞 石川版
犀星文学賞選考に尽力…辻井喬さんしのぶ声
写真:第1回「室生犀星文学賞」の最終選考会議で話し合う辻井喬さん(中央)。右が加賀乙彦さん、左が室生洲々子さん(2012年3月9日、読売新聞東京本社で)
 肝不全のため25日に亡くなったセゾングループの創業者堤清二さん(86)は、詩人で作家の「辻井喬」としても活躍した。室生犀星文学賞(読売新聞北陸支社主催、金城学園共催)の選考委員を務め、関係者からは辻井さんの人柄をしのぶ声が相次いだ。
 共に同賞の選考委員を務め、20年以上の付き合いがある精神科医で小説家の加賀乙彦さんは28日、「温厚で謙虚な人柄。議論する人ではなく、和気あいあいと会合が進む。第1回の選考もそうだった」と振り返った。
 2004年から務める日中文化交流協会会長の経歴にも触れ、「中国側の話をよく聞き、刺激する発言はせず、日中の文化交流はここ数年非常にうまくいった。代わりになれる人はおらず、(文化交流に)暗い影が差すのではないかと心配している」と惜しんだ。
 辻井さんが同賞の選考委員を務めたのは、詩集「異邦人」で室生犀星詩人賞を受賞し、生前の犀星に会った縁があったこと。犀星の孫で室生犀星記念館(金沢市)名誉館長の室生洲々子さんは、「若々しく精力的に活動されていた。賞の選考では、時代に流されず、軸を持って選考された」と懐かしんだ。
 2012年に小説「二日(ふつか)月(づき)」で第1回の同賞に輝いた富山県砺波市、南綾子さん(74)は、表彰式の前に初めて対面した時、「なんて柔和で器の大きい方なんだろう」と感じた。南さんの緊張をほぐすように笑い話をしたといい、「知識を詰め込み無駄のないしっかりとした文章を書く方で、経営者でもあるので、格式高い人を想像していたら全く違った。こういう大人(たいじん)に一歩でも半歩でも近づけたらと思った」としのんだ。
 辻井さんは体調を崩し、今年の第2回の同賞には選考会、表彰式を欠席したが、第3回についても続投の意思を示していた。
(2013年11月29日 読売新聞)
◆北海道新聞
小樽運河保存運動の力に 故・堤清二さん 埋め立ての流れ変える(11/29 05:30)
 25日に死去したことが28日に分かった堤清二さんは、企業人である一方、辻井喬の名で詩や小説を書く文人でもあった。
 道内では小樽運河の保存運動にも大きな影響を与えた。
 埋め立てて道路にするか否かの「運河論争」が盛んだった1982年、当時検討が進んでいた西武流通グループによる小樽再開発をめぐり、堤さんは「運河を全面保存しない限り、小樽に進出しない」と発言。保存派の住民らが水野清建設相=当時=に反対署名簿のコピーを提出する際も仲介役を果たした。
 結果的に運河は半分埋め立てられ、西武としての再開発も実現しなかった。しかし、保存運動に携わった小樽市のそば店経営小川原格さん(65)は「あの発言は、埋め立てに傾いていた流れを一気に引き戻すきっかけとなった」と振り返る。
 同じ保存派として活動した小樽市議の山口保さん(66)は「文化の薫りがする経営者だった。力もセンスもある西武に期待していたが、再開発が実現しなかったのは残念だった」と話した。
◆東京新聞
【社会】
堤清二さん死去 根底に「反差別」
2013年11月29日 朝刊
 堤さんは一体、何人分の人生を生きたのだろうか。
 経済人堤清二と文学者辻井喬。相矛盾した二つの存在が、いずれも戦後史に大きな足跡を残したことは、驚くほかない。
 いつも穏やかで、腰が低い人だった。
 「妾(めかけ)の子」としていじめられたこと。父が手掛ける観光開発の土木作業現場で戦前、朝鮮半島の人々と接したこと。女性の人権を尊重しない父に反発しながら育ったこと。こうした体験が、堤さんの根底に「反差別」の思想をつくりあげたのだろう。
 二〇一〇年十二月、朝鮮学校を高校無償化から除外することに反対する小さな集会に、堤さんの姿があった。「日本はまだこんなことをやっているのか」。珍しく語気を荒らげていたのが印象に残る。
 詩や小説で家父長制や天皇制の問題を追究したのも、ビジネスで消費者本位の小売流通業を模索したのも、常に「人間尊重」のぶれない理念があったことを感じさせる。
 護憲活動に力を注いだが、健全なナショナリズムを日本に根付かせることや、戦後日本が切り捨てた伝統を見直すことも強く唱えていた。表層的なイデオロギーにとらわれない柔軟な思考に、教えられることが多かった。
 堤さんは父の秘書時代に新聞記者の仕事ぶりに接し、経済人になってから「夜討ち朝駆け」の手法を自ら実践した。新聞の厳しい読者で、取材などで会うたびに、優しい口調で苦言を呈された。「昔の記者は他社と違うことを書くことを誇りにしていたのに、今の記者は他社と同じことを書いて安心していると思います」。その叱咤(しった)激励を肝に銘じたい。 (石井敬)
◆「9条は宝」と訴え
 世界平和アピール七人委員会の小沼通二事務局長の話 七人委員会に参加した当時、講演で「日本は軍事力を行使しないと宣言した唯一の経済大国。憲法9条は世界の宝」と話していた。日中関係にも「今のようじゃいけない。文化交流で相互理解を図りたい」と心を砕いていた。あれほど幅の広い人が亡くなったのは残念だ。
◆筋通った人だった
 ジャーナリストの今井一さんの話 「みんなで決めよう『原発』国民投票」の賛同人になってほしいと手紙を書いたら、すぐに返事が来るぐらい、情熱がたぎった人だった。脱原発を「左翼の前衛思想という発想ではなく、市民の力でなんとかしなくてはいけない」と話していたのが印象的だ。右翼左翼、市民政党、かつての仲間でも間違っていれば批判する。自分が間違っていたら謝る、筋を通す人だった。
◆東京スポーツ
糸井重里氏「コピーをボツにしてくれて助かった」と故堤清二氏に感謝
2013年11月29日 14時00分
糸井氏は感謝の気持ちでいっぱいだ(顔写真は堤氏)
 肝不全のため都内の病院で死去したことが28日に明らかになった「セゾングループ」の創始者堤清二氏(享年86)は、グループとして美術館運営や映画事業も行い、「セゾン文化」として1980年代を中心に一世を風靡した。社長・会長を務めた西武百貨店などでは広告にも造詣が深く、有名コピーライターの作品に怒りのダメ出しをしたこともあった。
 25日未明に死去した堤氏は流通や外食、金融にまたがる企業集団のセゾングループを築いた。その出発点と言えるのが西武百貨店。66年に社長、77年に会長に就任。会長時代にセゾン文化は花開き、その象徴が「おいしい生活。」「不思議、大好き。」などといった人気コピーライター糸井重里氏(65)による同百貨店のコピーだった。
 その糸井氏が2008年、堤氏に関するエピソードを自身のウェブサイトのコラムでつづっている。同氏が30代前半だったというから、1980年前後のころのことだ。
 コラムによると、糸井氏は西武流通グループの企業広告向けに「人材、嫁ぐ」というコピーを作成。関係者の評判はよかったが、最後の話し合いで会長の堤氏がボツにした。
 当時、企業内で「女の子」扱いされがちな女子従業員を「人材」として重視し、“結婚退職は惜しまれる”というメッセージを込めた。これを見た堤氏は、結婚はひとりの人間として大切な門出であり、そこに企業的論理の「人材」を持ち出すことに怒った。ただ、糸井氏に対してではなく、話し合いに同席した西武百貨店の幹部らを怒鳴ったという。
 西武流通グループの重要な広告は、堤氏への直接プレゼンテーションを経て決められたという。糸井氏は当時の堤氏について「『真剣にたくさんものを考える大人』として、先生のように見えていた」と記し、「没になって助かった」と振り返っている。
◆ニュースの教科書
2013年11月29日
日本社会の成熟化を夢見たセゾングループの創設者、堤清二氏が死去。
社会 経済
 実業家でセゾングループ創業者の堤清二(つつみ・せいじ)氏が11月25日、東京都内で死去した。死因は肝不全。86歳だった。
 堤氏はかなり以前に財界を引退しているので過去の人というイメージが強いが、堤氏が率いたセゾングループは80年代の日本において一世を風靡し、現代カルチャーを象徴する企業といわれた。また異母兄弟で西武鉄道グループ総帥だった堤義明氏と、西武グループの支配権をめぐって壮絶な争いをするなど、話題の多い実業家でもあった。作家として、父親との確執を作品として発表し続けるなど、繊細な一面も持ち合わせていた。
 堤氏の父親で西武グループの創業者であった堤康次郎氏は、清濁併せ呑む大物財界人で、衆議院議長を務めたこともある人物。かなり強引な手法で土地をかき集め、各方面から批判を浴びていた。このため康次郎氏は「ピストル堤」と揶揄されていた(ちなみに、堤氏のライバルで東急グループ創設者である五島慶太氏は「強盗慶太」と呼ばれている)。
 康次郎氏には何人も愛人がおり、清二氏と弟の義明氏は異母兄弟にあたる。東京大学に進学した清二氏は、父親の生き方や、前近代的な日本社会に激しく反発、左翼活動にのめり込んだ。共産党に入党したものの、党内の権力闘争に巻き込まれて除名となり、最終的には父親が経営する西武百貨店に入社した。
 異母兄弟の義明氏との激しい権力闘争の結果、西武グループ本体は弟の義明氏が継ぐことになり、清二氏が率いる流通部門はセゾングループとして西部鉄道グループから分離独立した。
 セゾングループは西武百貨店を中心にパルコ、無印良品などを展開して急拡大し、80年代のバブル消費文化を象徴する企業に成長した。当時は文化活動にも熱心で、糸井重里氏など、セゾングループの支援を受けた文化人が多数出現し「セゾン文化人」などというキーワードが出現したこともある。世界的なソムリエとして有名な田崎真也氏がかつて勤務していたホテル西洋銀座もセゾングループの経営であった。
 存命中の康次郎氏はかねてから百貨店が文化企業のようになることには否定的で、清二氏の猛烈な拡大志向や文化志向は、父親に対する反発も大きいといわれている。
 バブル末期には、国際的なホテルグループであるインターコンチネンタルを買収したが、直後にバブルが崩壊し、セゾングループは苦境に立たされた。1991年に清二氏はグループ代表を辞任し、セゾングループも2000年に解体された。
 堤氏は「辻井喬」のペンネームで作家活動もしており、1994年には「虹の岬」で谷崎潤一郎賞を受賞している。作品の多くは父親との確執をテーマにしており、終生、父親との関係性について思索していたことをうかがわせる。
 セゾングループは良くも悪くも、80年代の日本を代表する企業のひとつであった。結果論としては、内需中心の成熟国家に脱皮しきれない日本の立ち位置を象徴する企業であったともいえる。堤氏の死去によって、セゾングループは完全に過去のものとなったが、果たして日本は堤氏が理想としたポスト消費社会に脱皮できているのだろうか?